まだ私が若かった頃、雲仙普賢岳の噴火のインパクトはかなり大きかった。
本州を覆ってしまうかのような火山灰と、凄まじい土石流のニュースは火山の恐ろしさを日本全国に知らしめた。

火山は、ただ山が噴火するだけでなく時には噴火やマグマによって地面を変化させ、「山」そのものを形成してしまう事がある。
我々が立ってる大地は普段は確かな地盤のはずなのに、噴火はそれすらもたやすく変えてしまうのだ。
なんて恐ろしいエネルギー。

そのように噴火によって一つの「山」が出来る様を観測して記録に残した人がいるのをご存知でしょうか。
その人の名前は「三松正夫」。
いま北海道に有珠郡壮瞥町に存在する昭和新山を素人でありながら自己流で観測・記録した人物です。
私が三松正夫さんの事を知ったのは手塚治虫の「火の山」というマンガで。
マンガはフィクションではありながら、三松正夫さんの功績が描かれており、神様手塚治虫からの敬意がこめられています。

私は北海道を旅した際に壮瞥町に行き、昭和新山と三松正夫記念館を訪れてきました。今回はその様子をご紹介したいと思います。

こちらが現在の昭和新山。山より目の前に立ちはだかるエプロン姿の熊の方につい目が行ってしまいますが、奥にある赤茶色の山肌をした山が昭和新山です。
登ることはおろか、入山すら禁止されています。
有珠山の麓であったとは言え、ただの麦畑だった場所が山になってしまうとは自然とはなんと凄まじいことか。



お次は三松正夫記念館。
後ろに見えるのは有珠山へのロープウェイです。私は乗っておりませんが。

そして晩年の三松正夫。
きっとこのようにして昭和新山を見に訪れた人達に指をさしながら色々と説明をされていたのでしょう。

ところで、三松正夫さんの何がスゴイかというと、三松正夫さんは別に火山を研究していた学者ではなかったというところ。
元々は壮瞥町の郵便局長としてずっと働いていた方で火山とは特に関わりがなかった。
しかし明治43年(1910)に起きた有珠山の噴火が彼の運命を大きく変えてしまった。
地震が頻発し、住民に避難勧告が出されるなか、当時壮瞥郵便局局長代理だった三松正夫さんには通信確保のため退避の許可が下りず、壮瞥町に留まらざるをえなかった。
そして現地調査に来た火山学者の案内をする事になり火山学者に随行するなかで火山への造詣を深めていったのです。

上の写真が昭和19年に撮影された56歳の時の三松正夫さん。まるで映画俳優のようなかなり渋いおっさんです。
その右には郵便局員だった24歳の時の写真も。
左下に貼られている当時の新聞記事には、壮瞥町で奥地まで郵便の配達に行く際にはヒグマと遭遇しない為にラッパを吹きながら配達をしていたという表記があります。
ついでに、大正6年には火山学者達の研究に同行していた際に洞爺湖畔で湯が沸く場所を見つけ、温泉の発見者の一員になっています。

三松正夫さんと奥さんのつるさん。
写真の説明書きにもありますが、三松正夫さんは昭和新山ができた後、なんと私財を投じて昭和新山がある土地を買い取ってしまいました。
なので、現在は私有地に火山があるというすごい事に。
それはともかく、おじいさんおばあさんが仲睦まじくお茶しながら談笑する姿は微笑ましいの一言。
二人が苦労しながらも歩んできた年月が滲み出るからでしょうか。

とりあえず今回は三松正夫さん本人について、でした。
次回は昭和新山が噴火した様やどうやってその記録がなされたかについて、です。

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