今はもう見る事のできない余部鉄橋。
前々回では余部鉄橋の経緯と外観について、前回では余部鉄橋にまつわるデメリットについて、でした。
今はもう見る事ができない余部鉄橋①
今はもう見る事ができない余部鉄橋②
3回目となる今回は実際に余部鉄橋を走る電車に乗ってみます。そして余部鉄橋に関する記事はこれで最後です。
<後日追記>
今はもう見る事ができない余部鉄橋④

私は余部鉄橋の上を走る電車に乗ってみたくなって、自転車をとめて駅へ。ホームへ出る為には階段を登っていくことになります。

一直線にトンネルへと吸い込まれていく線路。念のため断っておきますけど、別にホームから降りて線路に侵入したわけじゃあないですからね。
階段を上がってくるとまずは線路を横切らないとホームに出れないだけですので。

これは・・・。二階建ての民家があんなに小さく見える。よくまぁこんな鉄橋を100年以上前に作ったものだとただただ驚くばかり。
橋の向こう側には既に二代目の余部橋梁の柱となる部分の建設が進んでいるのがわかります。
鉄道好きや他の地域に住んでる者にとっては無責任に「風情ある鉄橋がなくなるなんて寂しいしもったいない。」と言えるかもしれませんが、近隣住民にとってはいつも日常生活が事故や落下物を心配して過ごさなくてはいけないわけなので、やはり安全を最優先すべきでしょう。



駅のホーム。鉄道ファンや、私のように鉄橋が無くなってしまう事を知り一目見ておこうという人達が集まっています。

ホームの作りはとてもシンプル。壁をご覧になってください。色褪せていますがたくさんの人が並んで歩いている姿が描かれているのがわかりますか?
これ、この近隣住民がみんなで協力して資材を運んでいるところなのです。何のために?駅を作る為です。
実は余部鉄橋ができた時、この余部駅は存在していなかったのです。
後で出てきますが、鎧駅という隣の駅がありまして、余部住民のみなさんはわざわざ鎧駅まで徒歩で行ってやっと列車に乗れたのです。しかも、列車が来ない合間の時間を見計らって余部鉄橋の上やトンネルなどの線路の上を歩いて!すっげえ、毎日がスタンドバイミーだ。くしを落としたら大変だぜ。
それではさすがに不便だという事で住民のみなさんが要望し続けた結果、ついに余部駅が1959年に余部駅が橋のすぐ目の前に出来ました。
余部鉄橋の完成が1912年ですから、実に47年間ものあいだ住民のみなさんは隣の鎧駅まで線路の上を歩いて通っていたことになります。余部駅を作る際には、石などの資材を住民のみなさんが手伝って上げたので、その時の様子が壁に描かれているという訳です。

駅の看板。当時は「餘部」表記でした。文字通り住民の手で作り上げたと言っても過言ではない珍しい駅、餘部駅です。

ぎゃーっ!電車きたーっ!何人もの鉄道ファンと最前列争いを地味ーに繰り広げながら最前列にいた甲斐あったー!

ぎゃーああぁ・・・・・・とは言うものの、別に鉄オタではないのでこれが〇〇号でとか〇〇系でとかは一切わからないので興奮度はそこそこなのでした。

鎧駅着きました。これが鎧駅からの見晴らし。うわお、これまた素敵な駅です。ここはこの見晴らしのためにドラマなどでも使われる事があるそうです。

民家だって数える程しかない。都会での暮らしに慣れてしまった自分としてはきっとここに移り住んだらどう生活すればいいのかわからない。そんな自分が少し情けない。

また一駅分の切符を買って餘部駅へ戻ります。このまま山陰本線で色んな駅を見てまわるのも面白いだろうけど、自転車が置いてあるから帰らなきゃ。また山陰の険しい坂をこいでこいでこいで進まなきゃ。

今ではもう、100年以上前の技術で作られた余部鉄橋は見られない。いまあるのは現代の技術で作られた余部橋梁。
けど、バラバラにされた鉄骨は、展望台「空の駅」となったりお土産品として加工されたりと、いまもどこかで存在している。
在りし日の余部鉄橋の姿を見ておく事ができて、良かった。落下物防止対策などが施された新しい橋梁が無事できて近隣住民の方々の不安が軽減されて、良かった。
きっと今も、余部橋梁の上を電車がたくさんの人を乗せて、走っている。




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