私が高校一年生の時だっただろうか、「山田かまち」という平凡なんだか変わった名前なんだかわからない名前を初めて耳にしたのは。

群馬県高崎市にて早熟の天才山田かまちが生まれたのは1960年で、亡くなったのが1977年。
私がこの世に来るよりも前に既に彼はこの世を去っていた。
最近の若い世代の人ではもうあまりその名前を聞いたことがある人は少なくなっているかもしれない。

21歳の時、まだ旅慣れてない頃にバイクで日本を適当に旅していた私は群馬県高崎市にふいに寄った。その時高崎市が山田かまちの生まれ育った街とは知らずに。
高崎白衣大観音などを観光して、ふと現在の山田かまち美術館を通りすがりに見つけたのに「まぁいいや」と思ってその時は立ち寄らずに次の街へ移動してしまった。
それをずっと心残りに感じていて、その6年後、北海道へ単車一人旅をした際に山田かまち美術館に行く為だけに高崎へ寄った。

平日の昼間ということもあって、他には観覧客は自分の他は誰もいなかった。
受け付けにいらっしゃった女性は非常に優しそうな方で丁寧な対応をしてくれた。

館内は割とコンパクトだが、かまちの情熱が注ぎ込まれた絵や詩が飾られている。

真ん中のベンチにはノートが置かれていて、訪れた人が感想やメッセージなどを書き綴れるようになっている。
ノートを開くと、今でもたくさんの人が山田かまちの絵や詩に勇気づけられていることがわかる。

これは山田かまちが小学3年生の時に冬休みの宿題として描いた動物の絵。かまちは36枚におよぶ動物の絵を一時間程で書き上げてしまったという。

私は水牛がお気に入りで、水牛のポストカードを購入した。

当時の担任の先生は美術大学出身の方でその才能にとても驚き、絵は大事に保管された。
それにしても小学3年生でこれだけの絵をさっと描けてしまうなんてのがびっくり。自分が3年生の時なんて何ができただろう・・・。鼻水たらしてコロコロコミックとか読んでた気がする。

きっと内側から次から次へと感情が湧き上がってきて紙に絵や詩としてぶちまけないとおさまらなかったのだろう、エネルギーがほとばしっている。

隣の解説に書いてあるが、わざわざ絵の具をチューブからパレットに出してるのがもどかしく、チューブから直接描くというのがすさまじい。
いやぁ確かに小学生高学年から中学生ぐらいの時は自分も次から次へと湧き上がってきてたなぁ、エロい妄想だけが。

朝起きると足に釘が・・・。発想からして中学生離れしているが、何よりもその描き方がもう完全に画家のそれ。
自分も中学生の頃から美術は割と得意な方ではあったけど、まず顔とか輪郭を先につい描いてしまうのに、かまちは顔にも輪郭にも頓着していない。

しかし何で画家って裸婦像をよくモチーフに描くんだろ。中学生の時に裸婦なんて恥ずかしくて描けなかったな。

かまちの遺品。

かまちの独自の言葉で、詩が紡ぎだされている。

すごすぎるだろこの感覚・・・。

かまちは絵だけじゃなく詩もかくし、音楽だって好きだった。
特に好きだったのはビートルズ。そしてかまち自身も音楽を始める。

かまちの遺品のギター。

かまちは同級生とバンドを組み演奏を始めたのだが、そのバンドメンバーの中には氷室京介がいたとか。
この辺はジャン=ミシェル・バスキアにも通ずるものがあるけど、才能ある人ってどの分野でも才能ある人と関わりがあるんだな。類は友を呼ぶとでも言うか。

そして、1977年の8月10日、かまちは練習中だったギターで感電死してしまう。
2003年に作られた映画「かまち」では、自室で上半身裸の体にでシールド(ギターとアンプをつなげるコード)を巻き付け、暑いなか汗だくでギターに熱中してるシーンがあったと記憶している。

「かまち」という名前にこめられたお母さんの思い。

右半分が暗くて見えづらくてすいません。

ぜひ昨今の首をかしげたくなるような名前をつける親御さん達にも読んでもらいたい。親がつける名前で子には良い影響も悪い影響も与えるという事を考えてもらいたい。

私達が70年かけて費やす情熱やエネルギーを彼はたった17年間で費やしてしまったのかもしれない。まるで、そうなることを知っていたかのように、生き急ぐように、かまちはたくさんの絵や詩を遺した。
彼は、17歳であることを飛んだのです。

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