旅の一コマ、初めてのインド第三回目。

ダラダラと続いておりますがすいません、今回で終わりにしますです。

前回までの簡単なあらすじを。
インドのエローラ石窟寺院を見たいがためだけに初めての海外でインドに来た俺。
デリーの空港から安宿街に辿り着く前に旅行会社に連れて行かれ、うまいこと丸め込まれパスポートも握られそのままツアーまでも組まされた俺。
ガイド兼ドライバー兼監視役のインド人のおっさん付きで2泊3日のツアー。
しかもパスポートはドライバーに握られたまま。
なので自分の身にいつ・どこで・なにが・どうなるかもわからない。
今回はいい加減逃げ切れよ俺!

・・・という訳で、半ば強制的に組まされたツアーが始まった。
ツアー代は、記憶が確かなら日本円でおよそ3万円。この一ヶ月半のインド旅行の為に持ってきた資金はおよそ8万円。
なので、インドに着いて二日目で既に予算の三分の一以上を使う羽目になってしまったことになる。
帰りの航空券は一ヶ月半フィクスなのでお金がなくなったからといって日程を変更することはできない。

インド人に丸め込まれてツアーを組んでしまった事に対しての挫折感と、お金がもう三分の一減ってしまった事に対しての絶望感と、このツアーの最中に危険な目に遭遇しないかの不安感で、もう「最悪」としか言い様がなかった。

ガイド兼ドライバー兼監視役のおっさんはスバシュという太ったインド人だった。

まずはデリーからアーグラーというタージ・マハルがある街まで車で移動。
スバシュはおしゃべりな奴で、結構話しかけてきた。
当時はまだ英語があまり話せなかったが、インド人だってネイティブスピーカーではないので、多少は会話できた。

アーグラーへ行く途中、シヴァというヒンドゥー教の神様の大きな石像があって、スバシュに「写真撮りたいか?」と訊かれ、車を路肩に停めて写真を撮った。
その時は、「こうして道すがら気になった場所があったら寄ってもらえるからプライベートカーでまわるのも悪くないな」などと、無理くり自分に言い聞かせていた。

アーグラーへ着いてタージ・マハルを観光。確かにすごい建築物だった。

左右対称に作られた広大な庭園の奥に佇む大理石の霊廟。
まだその頃の俺はカメラに全く興味がなく、バックパックに持っていたのは26枚撮りのインスタントカメラ5個だった。だからタージ・マハルの写真は数枚しか撮ってない。
くそっ、今だったらきちんと一眼で何十枚でも撮りまくってやるのに!

タージ・マハルを離れる時、10歳ぐらいの男の子が「ジャパニー、ポストカード買ってよ、100ルピー!」と声をかけてきて、主にタージ・マハルが写ったポストカードの束を売りつけてきた。
インドの物価の相場などまるでわかっていなかった愚かな私は、へーいいじゃんと、言い値の100ルピーで買ってしまい、さらにいい買い物したぐらいに考えていた。

おそらくインドに慣れたバックパッカーだったら、「100ルピー!?ふざけんな、ぼったくるにも程があるだろ!」と言うところなのに。
ちなみに、当時のレートで100ルピーは300円近く。
安いレストランで食べるターリーとうインドの定食が30~40ルピー。
スバシュは「いくらで買ったんだ?」と訊いてきて、さりげなくこの日本人が相場をわかってない事を確認した。

その日の夜、レストランで晩ごはんを食べた後、スバシュはホテルではない場所へ車を走らせた。

辺りは暗い。
どことなくニヤニヤしながら「ここだ」と言う。
柵があって敷地内向こうには小屋がいくつか並んでいた。
何だここは?

突然小屋の周りの暗がりの中から何人もの少女たちが手を振りながら走ってきた。
みんなまだ間違いなく未成年。というかむしろ子供。
みんなお出掛け用という雰囲気の鮮やかな色のワンピースを着て、笑顔を振りまきながらこっちへ来る。
私はとっさにここがどんな場所なのか理解し、「いや、ここはいい、早く出発してくれ!」とスバシュに叫び、そこから離れてもらった。
そりゃあないよ。いくら貧しくてもそれは酷いよインド。

次の日、車はアーグラーを離れ、次のジャイプールという街へ。しかしまた真っ直ぐには向かわなかった。

小さな路地に入って車を停め、とある店に入るようにうながしてきた。
そこは宝石屋だった。
頬のこけた老人に近いインド人の店主が、石についてあれこれ説明してくる。
スバシュは部屋の隅でチャイを飲みながら他のインド人と談笑している。
あーそういう事ね、つまり車で各地をまわりながら土産物を買わせようって事ね。
こっちだってこれ以上インド人に連敗するわけにはいかねーよ!
あと、チャイを1杯だしてくれてあるけど、どうせ睡眠薬が混ぜられてんだろ!飲まねーよ!
喉カラカラだけどそれだけは飲めないと思った。
そのチャイを飲んだが最後、目を覚ましたら身ぐるみ剥がされて道端に放り出されてるかもしれないから。
そして、一時間以上に及ぶインド人店主の売りつけに必死に抵抗し、なんとか何も買わずに店を出る事ができた。

車に戻ったらすぐにスバシュに「もう土産物屋とか一切寄らないでくれ!」って怒ったけど、結局また次の日土産物屋に連れて行かれた。
はぁ・・・。ほんとインド人は疲れる・・・。なんなのもう。

まぁ他にも色々な目にあったけどなんとか車移動のツアーは終わった。
あとツアーの内容で残っているのはバラナシという街まで夜行列車で行くことだけ。

駅の前でスバシュから夜行列車のチケットとパスポートを渡された。

やっとパスポートが自分の手に戻ってきた~!はぁ~良かった。

信用できないこのインド人からついに解放される嬉しさから、スバシュにチップを投げつけるように渡し、車から降りて振り向かずに駅の構内へ歩いた。

列車のチケットは、一番ランクの低い席で、客車内はそりゃあもうビックリするほどぎゅうぎゅう詰めで自分のチケットの席番号なんてあってないようなもので驚いた。

普通、日本では混んでるとは言っても二次元の話だが、インドの混み方は違う。三次元に混むのだ。

座席に座ってる自分の足元にもインド人、上段の席にもインド人。一番上の荷物置く為の網棚にもインド人。とにかく立体的に混んでいる。

そこらの家族連れのインド人は俺のバックパックを椅子にして娘を座らせている。
バラナシまでは12時間以上かかるけど、一回トイレに行ったらもう俺の場所はなくなると思い、ずっとオシッコを我慢し、窮屈な姿勢にも耐えた。

やっとバラナシの駅に着いたら、ホームで2人のインド人が俺の名前を紙に書いて持って待ってた。
ツアーの中にバラナシでの最初のホテルも含まれていたからだ。

そのまま迎えの車でホテルまで行く途中でやはりインド人にバラナシ周辺のツアーはどうだと言われた。もちろん断った。

ホテルで一泊し、次の日チェックアウトしようとしたら、フロントのインド人が「ちょっと待て」と言ってどこかに電話し始めた。
数分の会話の後、「オーケー、行っていいぞ。」と言われた。
おそらく、デリーの旅行会社に電話して、もうこのカモの日本人をリリースしてもいいのかと確認していたのだろう。

ともかく、これで完全に悪質ツアーから解放される事ができた。

・・・でも、悪質と言いたいところだけど、いま考えればまだ良心的だったと言わざるを得ない。
本気で悪質な旅行会社だったら、私はタージ・マハルなど見ることなく全くどこかわからない場所に軟禁され身ぐるみはがされていたかもしれないからだ。

例え法外な金額でツアーを組まされようと、ところどころ土産物屋に寄らされ何か買わされようと、せめて観光地を観光できて終わっただけマシだ。

安宿街を目指して歩きながら、私は何度も心の中で「ちくしょー!」とつぶやいてた。

歩いていると、オートリキシャやサイクルリキシャが「ジャパニ、乗るか?」と声をかけてくるが、全部無視してひたすら歩いた。
インド来てすぐ下手こいた自分に罰を与えるように、ひたすら。

どれだけ歩いたのだろう。
相も変わらずどこもかしこもインド人でごった返している。
安宿が集まる場所はこっちでいいのだろうか。

ふと視線の先に建物がなくなり、うすいモヤがかかったその下に河のようなものが見え、「ガンジス河!?」と思ったその時、右手の路地から明らかに日本人とわかる見た目の若い男性が見えた。

私は自然と駆け足になりガンジス河の事などマダガスカルの向こうに忘れ去り、

「あの、すいません!日本の方ですよね!僕、デリーで旅行会社につかまっちゃっててさっきやっと解放されてきたんです!であの、やっと日本の人に会えて、えと、その!」

と自分でもビックリするほど早口でまくしたてながら勝手に握手した。
たぶん、目には涙すら浮かんでいたと思う。

男性は、ヘンな奴にいきなりからまれて驚いた様子だったが、親切に対応してくれて、ひとまず自分が泊ってる宿によければチェックインしますかって事で、案内してくれた。

男性に連れられ、大人がすれ違う時には肩がぶつかりそうな程せまい路地を進む。
地面はデコボコでそこかしこに水溜まりや牛のウンコやゴミがあるので気をつけて歩かなければいけない。
上を見ると看板だらけ。そして路地の両脇には様々な店が軒を連ねている。


ここが聖地バラナシ・・・?

5分ぐらい歩くと、ふいに男性が左に曲がり、さらに奥へ行くと、クミコゲストハウスという文字が見えた。
残念ながらその時は既にフルの状態で空きのベッドが無かったので泊まれなかった。

仕方ないので男性にお礼を言って、そこからは一人で宿を探して歩いた。
バラナシは宿がたくさんある。
ここまで歩いた中である程度の雰囲気はわかったので、あとは自分の足で、自分の勘で切り抜けなくては。

そして一軒の宿に決め、チェックインした。100ルピーぐらいのシングルルーム。
宿のオーナーは白髪の丸坊主姿で優しく口数の少ない人だった。
私がデリーで遭遇した旅行会社のいきさつを話すと、「くそっ、汚いインド人どもめ。すまんなぁ。」と、涙を流してくれた。

次の日、オーナーからドミトリーに日本人が泊ってるぞと聞き、私はドミトリーに移った。

ドミトリーとは相部屋の事で、1泊30ルピー(当時のレートで約80円)だった。

そこからの2週間程の日々は、本当に楽しかった。
この宿のドミトリーで色んな日本人バックパッカー達と出会い、会話し、ご飯を食べ、遊び、笑い・・・。

20年近く経った今でも、いくつかのシーンは鮮明に覚えている。

私の、バックパッカー旅初期の、原風景的な記憶。

やっと、心から笑う事ができた。
やっと、旅は楽しいと思えた。

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